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【家族】両親との出会い、そして別れ

こんにちは(*´꒳`*)

KUNJI(@kunji4338)です!

ちょっとタイトルがボクらしくないかな?

なんて思いましたが、これはボクにとってとても重要な事なので書いていきますね。

親との出会い

ボクが親と出会った(この世に生をうけた)のは〇〇年前(ここはあまり重要ではないので誤魔化しますww)

当然、父親と母親の元に命を与えてもらいました。

父と母の間にはボクより前に兄が授かったのですが2歳か3歳の時に心臓を患い短い生涯を遂げたそうです(ボクは兄に会っていません)

その後、父と母の間に生まれたのがボクでした。

ボクが生まれた時、両親は本当に喜んでくれたそうです。

息子を一人失った後に授かった子供だったこともあり、それは大切に大切に育てられそうです。

こう言うと過保護で箱入り息子みたいに思うでしょうが、蓋を開けてみると、結構な野生児に育っていました(自称)

ボクが生まれたのちに弟と妹が生まれ両親もとても喜んだそうです。

自分が親になって分かったのですが、我が子を失うなどハッキリ言って考えられませんし考えたくもないです!

両親は本当に辛かったと思います。

なのでボク達兄妹3人が生まれた時には本当に嬉しかったんだと思います。

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「母は強し」を体現してるような母でした

ボクの母親はとにかく活発でした!

人付き合いも良く、面倒くさがらず、何にでも挑戦してみる、まさしく「母は強し」を体現できている母だったと思います。

こんなに母の事を褒め称えてると「KUNJIマザコンなんじゃね」って思われてしまいそうですが・

KUNJI

断じて違います!!

まぁそんな事は置いといて、母は勉強に関してもなかなかのスパルタでしたね(^_^;)

勉強の内容を教えるって言うわけではなく、とにかくボクがちゃんと勉強しているか傍について監視していましたね(爆)

ボクがそのくらいしなきゃ勉強しなかったのかも知れませんね(笑)

当時は今のようにプライバシーがどうだとか細かい事にやかましくなかったので、先生も試験がある度廊下に順位を貼り出していました。

ボクは1年生の時クラス40人中の39番だったのを覚えています。

母が付きっきりで勉強を始めたのが1年生が終わる頃、2年生の中間テストの時には40人中2、3番になっていました。

今思うと本気で勉強したのはその時期くらいかなーってf^_^;

予兆もない突然の別れ

前述したように、ボクには会ったことはないですが確かに兄が存在していました。

それは兄の13回忌の法事をしてた時だった。

親戚も集まりお坊さんも来られて法事が始まろうとしていた、何故か母の姿がない、そう言えば朝から母は「眠いんよ、もう少し寝させてね」って言っていた。

母はボクが言うのもアレなんですが、行事などがある時には誰より先に率先して仕事をするような人だったので、子供心に「ん?!」って言う気持ちはありました。

でも当時中学3年生のボクにはそこまでの知識がなく、今でも本当に悔やまれます

親戚のおばちゃんが「お母さんは?」と聞くので「2階で寝てるよ」って言ったのを覚えています。

その後はおばちゃん(母のお姉さん)が「〇〇ちゃん、様子が変よ」「救急車呼んで!」って言うのでボクは直ぐに母の元へすると母が「くんちゃん(ボクの事)大丈夫よ」って

まさかそれが母との最後の会話になるとはその時は思いませんでした(>_<)

それから母は救急車で病院に運ばれてICUへ入りましたが意識が戻る事なく、3日間人工呼吸器で命を取り留めている日が続きました。

強制呼吸にも限界が来たのでしょう、病院の先生が「外しますね」と父や親戚のおばちゃんの承諾を得て呼吸器を外しました(この辺はうろ覚えなので・・・)

父と兄妹3人でこれでもかってくらい病室で泣きました、ほんの数日前まで元気で笑いながら暮らしていた母の心臓が、もう動いていない。

ボクをこの世に生み出してくれた母を失った瞬間でした。母になんの恩返しも出来なかったです。

今考えても涙が出て来ます・°°・(>_<)・°°・。

突然、母が亡くなり皆の心にポッカリと穴が空いてしまった。

母は人並み以上に快活な人だったから存在感がハンパなかったので、その分家族へのダメージも大きく当分の間家に笑い声がなくなってしまいましたね。

父が一番落ち込んでいた、あり得ないくらい痩せてしまっていたのを思い出します。

弟、妹もまだ小学生だったから、本当に辛かったと思います。

今振り返って見ると当時の母は人の2倍以上習い事をしていた、人の2倍以上人と関わり合いを持っていた。

自分で分かっていたのかな?とても急いでいたように思えますね。

母は幸せだったのだろうか?

今となっては分かりませんが、毎日よく笑っていたから少しは幸せだったのかな。

いや、幸せだったんです!そうじゃないと若くして亡くなった母が可哀想になるから(^^)

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父との生活、苦労した父の背中

母が亡くなり当分の間は家族皆が何も考えられない時間が過ぎていきました。

でもいつまでも落ち込んでばかりはいられなかった、うちは母方の家だったので母方の祖父母が同居していました。

当初はばあちゃんがご飯を作ってくれていましたが、数年してじいちゃんが亡くなり、またばあちゃんが亡くなりと当時は本当に不幸続きの我が家でしたね。

母もばあちゃんもいなくなってしまったのでご飯を作る人がいない、我が家はそんな状況になってしまっていた。

ボクも弟も妹もそんなスキルがなかった。

それからは父が食事の支度をしてくれるようになりました。

今、考えると仕事から帰ってご飯を作り、洗濯をしとボク達も手伝いはしましたが、家事のほとんどをこなしていた父は本当に大変だったと思います。

母が亡くなってからは男手一つでボク達兄妹を育ててくれました、父には感謝してもしきれませんね。

母が亡くなってから父は再婚もせずずっと独り身でいました、きっとボク達に遠慮していたんでしょうね。

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父との突然のわかれ

母が亡くなってから年月が経ち83歳になった父が今から5年前に他界しました。

父は元々血圧が高く気をつけてはいたのですが、それ以外特に悪いところもなかったので病院にもかかってはいませんでした。

「たまには病院へ行かなきゃダメだよ」と会うたびに言っていたのですが、本当に悪いところがないので先延ばし先延ばしにしていたんでしょうね。

その時は突然やってきました。

年度が変わって4月、新年度の仕事を始めていたところに弟から電話がかかって来ました。

父の訃報でした。

ボクは長男ですが実家を出て自分で家を建てて暮らしています。

実家には弟と妹夫婦が同居していたので父の事はとりあえず安心していました。

そんな中の訃報「オヤジが亡くなってるわ」

一瞬耳を疑いました、嘘であってほしいとも思いました。

仕事を途中でやめ直ぐに退社し、妻と連絡を取り実家に向かいました。

ボクが実家に着いた時にはもう父は冷たくなっていました。

本当に悲しかった、狂いそうでした、母が亡くなってから苦労してるのを見ていたので、「なんで、なんで」ってずっと言ってましたね。

もっともっと長生きして欲しかった、ボクにもっと面倒をかけて欲しかった。

色んな事をたくさん悔やみましたね。

もっと何かしてあげとけばよかったと。

せめてもの救いは父が亡くなる1年半か2年前くらいにボクの家族と旅行に行ってたくさん笑った事、普段は血圧が高いので飲めないお酒を一緒に飲んだ事、本当に旅行に行っといて良かったと思いました。

前述した様に父は血圧が高い以外は特に悪いところもなかったので、前日まで元気で暮らしていました。

母と同様ある日突然、父も亡くなりました。

ボクは実年齢は出していませんが、世間一般的に両親を失う様な年齢ではないですね。

今、2人がいたら一緒に笑える事もあったのかなって思ってしまいます。

さいごに

今、当たり前に親が元気で健在な方がほとんどだと思います。

明日、親が居なくなる・・なんて思わないでしょうけどできる時にしてあげてください。

ボクにはもうしたくても親孝行は出来ません。

自分が親になってからまた特にこんな事を改めて考える様になりました。

人の一生は本当に儚い、でもだから美しいのかもしれません。

もう一度父と母に会えることができるなら、たくさんたくさん感謝の言葉を送りたいです。

「親孝行したい時には親は居ず」

皆さん、大切にしてあげてくださいね(*´꒳`*)

今回も私ごとになりました。

ここまで読んでいただきありがとうございました

これからもブログとKUNJIを宜しくお願いします

 

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